授業科学とは
教育に関する私たちの研究の進め方も,ガリレオのやり方にならってはどうか──私はこれまでずっとそのように考えて研究をすすめてきました。私は「これまでの教育学研究の状況は,自然科学史になぞらえていえば15~16世紀ごろの状況とそっくりだ」と考えていたからでもあります。
めざすものが教育問題全般にわたる法則性を明らかにすることだとしても,いきなり教育問題全体をとりあげることはたいへんです。そこで私は,多くの教育現象のなかでも限られた条件のもとで反復して行なわれている学校の授業だけに焦点をあてて研究した方がいいと考えたのです。しかも,その授業の中でも,教えることの内容をもっとも明確にしうる自然科学の授業をとりあげたというわけです。
いま私は,このもくろみは私の期待以上に成功したといってよいと思っています。私たちは,仮説実験授業の授業書を作成することによって,従来の科学教育では解決しえなかったもっとも基本的な矛盾──押しつけと自由放任(指導と自発性)の矛盾を解決する授業形態を生みだすことができたと自負しているからです。
私たちがいま,自然科学の教育,狭い意味での仮説実験授業の研究から,授業科学一般の研究につきすすむことを考えることができたのは,そのためです。いわば,私たちは,落下運動の法則を明らかにしたガリレオの段階から,力学運動全般の法則を明らかにしたニュートンの段階に足をふみ入れはじめたのだといってよいかも知れません。ニュートンだって,自然現象すべてを明らかにするために,力学的運動だけに着目したように,私たちも,教育現象すべてを明らかにするために,学校で行なわれている授業だけに焦点をあわせて研究をすすめた方がよいのではないかと思うのです。
授業における模倣と創造
こんなことを書くと,「すごい大ぶろしきだなあ」とあきれる人が少なくないかもしれません。しかし,私は,なにも一人でかってに自己満足をしているというわけでもないと思っています。そのことは,最近「授業書」という言葉が急速に広範囲で用いられるようになってきたということを見ても,うかがい知ることができると思うのです。
もともと,授業書という言葉は仮説実験授業が生みだしたものです。それは,もともとあった「テキスト」という言葉を私たちが「授業書」という言葉におきかえたというだけのことではありません。「授業書」という概念そのものが,仮説実験授業の生みだしたものなのです。
それなら,授業書とは何でしょうか。それは,「授業というものには,教師やクラスの個性のちがいにはよらない一定の法則性がある」という考え方にもとづいて作成される教案兼教科書兼ノート兼読物兼……といったものだということです。私たちは,それぞれの教材について,教師やクラスの個性のちがいをこえた授業の法則性というものが厳存すると考えて,その法則性を授業書というものに具体化してきたのです。
「授業書を作る」ということは,その授業書によって他の人々が他のクラスで授業を実施することを予想するということでありました。じっさい,私たちの授業書は,研究会内外の人々によって数十回,数百回,数千回となくくり返し使用されて,ほぼ一定の成果をあげうることが確認されてきました。
仮説実験授業が提唱されて以来,「他人の作ったテキスト(授業書)なんかで授業をするのは,教師の主体性を損うものだ」といって反対する人々が少なくありませんでした。ところが,かつてそのようにいってきた教育運動のりーダー格の人々の中にも,近ごろは「授業書作り」をしようという人々があらわれています。「他人の授業書をそのまま使って授業をすることは,必ずしもその教師の主体性を損うものではない」ということが事実によって証明されてきているのです。
このことは,私たちのこれまでの研究の成果を示すものとして喜ばしい限りです。「教師の個性,クラスの個性をこえた授業の法則性がある──その法則性を「授業書」の中にうまくとりこめば,だれでも,どんなクラスでも,ある一定水準以上の成果を期待できるようになる」こういうことが認められるとすると,それは,名人芸的な授業研究にはげむだけでなく,授業を法則的・科学的に研究するに値するものだということを認めたことになります。
板倉聖宣『授業科学研究1』(1979年,仮説社,9-11ペ)